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端午の節句の発展と世界への広がり-中国屈原学会副会長インタビュー  

中国の伝統的な四大節句の中で、旧暦五月五日の端午の節句は、現在ユネスコの世界無形文化遺産に登録されている唯一の節句である。唐の時代に発展し、1000年余りにわたって受け継がれてきた端午の節句の風習は、中国各地で異なるが、偉大な詩人屈原を記念することをテーマとし、粽を食べることと竜船競漕が主な内容となっている。 端午の節句がどのようにして屈原を記念する節句に発展したのか。屈原文化はどのように海外に広がり、東西文明交流の中でその価値を示したのか。先ごろ、中国華中師範大学教授で、中国屈原学会副会長、湖北省屈原研究会会長の蔡靖泉氏が中新社「東西問」の独占インタビューに応じ、このことについて語ってくれた。 インタビューの概要は以下のとおり 中新社記者:端午の節句はどのように始まったのですか。 蔡靖泉:端午の節句の起源には、屈原を記念する、伍子胥を記念する、勾践を記念する、夏至祭、竜を祭るなど10種類以上の言い伝えがあります。しかし、より合理的で信憑性があるのは、先秦に由来する夏至祭です。 夏至は、古代先秦の人々が最も早く確定した四大節気(春分、夏至、秋分、冬至)の一つです。古代に人々は、季節を分け、生物季節をはっきり表し、これに合わせて農作業を行うことが重要であると考え、大切にしました。古代の人々は、夏至の日に五穀豊穣や無病息災を願い、災害や疫病の厄を払う行事を行いました。その過程で、夏至は、ますます豊かな民俗行事を伴う夏祭りとなりました。   夏祭りの期日は、通常農作業に適合する旧暦の5月、つまり仲夏の5日とその前後です。陰陽五行説の流行に伴い、戦国時代の人々は、陰陽の消長により季節の変化を説明し、五行を四季と五つの方角に組み合わせて「五」を尊びました。特に陰陽の消長が最も急激な夏至を重視し、また「五」を尊んだことから節句を五月五日に定めました。 五月五日は、「端五」あるいは「端午」とも呼ばれます。「端」は始めの意味で、「五」と「午」は同音異字です。漢の時代には、朝廷は五月五日に行う祈祷を国の儀式と定めました。夏至と端午の節句が重なった場合、夏至と端午の節句の祈祷を合わせて行いました。祈祷を行う夏至と端午の節句は、朝廷が儀式と定めたため全国的な大きな祭りになりました。 中新社記者:端午の節句の起源は、もともと屈原とは無関係ですが、のちになぜ屈原を記念することをテーマにした祭りになったのでしょうか。 蔡靖泉:おそらく、漢の人々は、五月五日を陰気が出て、人が亡くなりやすい厄日とみなし、この日を故人の命日とも考え、尊敬すべき人物を記念する日としたのでしょう。たとえば、飢えた君主に腿を食べさせ栄華を求めなかった介子推、忠節賢能であったが見捨てられ死に追いやられた伍子胥、川沿いに父親の遺体を探して見つからず川に身を投げて溺れた孝行娘の曹娥、勤勉で民を愛し業績も優れた曹悟太守の陳臨、忠君愛国で恨みを抱いて川に身を投げた屈原などです。 文献によると、東漢の時代には端午の節句に5人の人物を記念しました。記念の時期が最も早かったのは介子推で、次が伍子胥、その次が屈原、曹娥と陳臨は共に遅く、地域については、屈原が最も広範で、次が介子推、その次が伍子胥、曹娥と陳臨は共に狭かったそうです。 つまり、東漢の時代には、屈原が端午の節句に最も広い地域で記念された歴史的な人物だったのです。その理由は、主に3つです。一つ目は、忠誠を尽くしたが故に疎まれ、諌めたが故に追放された経験をもつ屈原は、漢北に左遷され、江南に追放された生活の中で、人々に知られるようになり、その人生が長く語り継がれました。 二つ目は、屈原が愛国思想や不遇な人生を描写し、その美しい政治の理想と潔癖な人格が表れている『離騒』などの楚辞の作品は、その大きな精神性、人徳および芸術的魅力で戦国時代末期から漢の時代の文人たちを魅了しました。楚辞が流行し、文人たちは競って研究し楚辞を模作しました。屈原は道徳的人格の模範として崇められ、楚辞は文学芸術の手本として崇められました。 三つ目は、東漢の後期、王権の弱体化、政治的混乱、社会不安、国の危機的な局面により、社会のあらゆる階層の人々は、州土の平楽、顕著な君王の徳の恩沢、人々の幸福な生活という「美しい政治」の理想を求め奮闘した屈原の生涯により一層思いをはせるようになり、「屈原のためにも」端午の節句の行事に意識的に参加するようになりました。 中新社記者:数千年にわたる歴史の中で、端午の節句の風習はどのような発展を遂げたのでしょうか。その意義は何でしょうか。 蔡靖泉:おおまかに言えば、端午の節句は、漢の時代からいくつかの重要な時期を経て発展してきました。 まず、漢の時代です。漢王朝は端午の節句を国の儀式と定めたため、全国的に重要な行事となりました。東漢の後期には、社会不安が続き、人々は屈原が追求し描いた「州土の平楽」が実現することを待ち望みました。公明正大な知識人たちは屈原を哀悼するという気持ちに託して、志をあらわしました。端午の節句に屈原を祀る風習が広まり社会のあらゆる階層の人々が参加するようになりました。人々は「屈原のためにも」端午の節句を祝ったのです。次は、魏晋南北朝時代です。屈原を記念することは次第に中国南部での端午の節句の主要なテーマになりました。粽を食べ、5色の絹を結んで祈祷をしたことも屈原を記念したことに由来しており、屈原と端午の節句に関連する民間伝説が増えていきました。そればかりでなく、屈原が川に身を投じたのを人々が競って救出のために舟を出したという伝説により、端午の節句の最も盛大で最も重要な活動である竜船競漕がうまれました。五月五日の風習は、もはや「屈原のためにも」ではなく「屈原が中心」になったのです。 その次は、社会が統一された隋唐の時代です。南北の文化が融合し、中国南部で盛んに行われた屈原を記念し、粽を食べ、竜船競漕を行うという端午の節句の風習が次第に中国北部に伝わり全国的な風習になったのです。晩唐の詩人で僧侶の文秀は、「節句の端午はだれが言い始めたのか、とこしえの言い伝えでは屈原のためである」と朗詠しました。唐の時代に端午の節句の風習はほぼ確立され、今日まで受け継がれ、衰えることはありません。 端午の節句が屈原の祭りへと発展したのは、歴史的な創造であり、人々が選択したものです。その発展と定型化の意義は、主に、風習の内容と関連施設を充実させたことで祭りの行事が精彩を放ち、社会のあらゆる人々を惹きつけ伝承発展させたこと、端午の節句の主旨を昇華させ、その風習に永遠の生命力を与えたこと、文化のアイデンティティと民族団結を促進し、それにより国が一丸となって強国となり、世界平和に寄与することなどです。 中新社記者:「屈原文化」をどのように理解しますか。屈原文化はどのように世界に広がっていったのでしょうか。 蔡靖泉:屈原の崇高な歴史的地位と奥深い歴史的影響力は、中国史における文化的現象や文化的伝統を形成しました。つまり、これが屈原文化です。 屈原文化は、屈原自身、屈原の詩、そこから派生した文化的創造の成果や文化表現形式なのです。すなわち、屈原および楚辞を中核とし、屈原と楚辞の研究を礎とし、屈原に関連する建築、文学、民俗学等を表現とする文化体系なのです。 屈原文化は、近くから遠くへ、狭いところから広域へという歴史的プロセスを経て海外へ広がっていきました。 楚辞は、最初漢字文化圏の東アジアや東南アジアの近隣諸国に伝わり、特に朝鮮半島、日本に大きな影響を及ぼしました。 古代朝鮮の文人はみんな屈原を敬慕し、恭しく楚辞を朗読し、屈原を記念する詩や楚辞体の詩を大量に生み出しました。李氏朝鮮時代には、楚辞に秀でた妙手も競って現れました。屈原の精神と楚辞の芸術は、朝鮮の歴史文化の発展に深い影響を及ぼしました。 日本の研究者によると、屈原と楚辞は7世紀はじめにすでに日本人に知られていたと思われます。漢の時代に編纂された詩集『楚辞』は、奈良時代(710年〜794年)にすでに日本に伝わっていました。20世紀には、日本の楚辞研究は新たな段階に入り、数多く現れた屈原と楚辞の研究者たちは、多くの研究論文を発表し、さまざまな楚辞の解説本や研究書が出版されました。 地域的、言語的隔たりにより、欧米諸国の人々は屈原や楚辞への理解が遅れました。楚辞は、17世紀に中国を訪れた宣教師によってヨーロッパに伝えられたと思われます。近年、研究者の調査研究により、ヨーロッパの研究者が翻訳し紹介した楚辞の文献が200点あまり発見され、英語、フランス語、ドイツ語、ラテン語等の十数種類の言語が含まれています。20世紀に入ると、楚辞は欧米の大学において中国文学の教育、研究の対象となり、多言語の楚辞の翻訳本がヨーロッパ諸国で大量に出版され、楚辞研究も欧米諸国に広がりました。20世紀以降、楚辞はヨーロッパの文学創作に顕著な影響を及ぼしました。 中新社記者:屈原文化を海外へ広めることは、楚辞を広めるだけでなく、端午の節句を広めることでもあります。端午の節句は中国と海外ではどのような共通点と相違点がありますか。 蔡靖泉:端午の節句は、民衆が行う祭の風習で、海外での普及は、多方面にわたり影響を及ぼしています。今日まで、世界各地に住む華人が端午の節句を迎えるために集まり、ユネスコの世界無形文化遺産に登録されたことにより世界中に広まっています。現在でも旧暦の五月五日かその前後に行われ、その主旨は中国の端午の節句を受け継いで幸福を祈り災いを避けるという文化的意味を含んでいます。 国により文化的伝統や社会習慣が異なり、海外に伝播した端午の節句は内容や形式を変えていきました。  日本に伝わった端午の節句は、男の子の健やかな成長を祈る「男の子の節句」へと発展しましたが、菖蒲を吊るし、よもぎを挿し、菖蒲酒を飲み、菖蒲湯に入り、粽や餅を食べ、竜船競漕を行う風習は受け継がれています。 ベトナムの端午の節句では、百草(主に菖蒲やよもぎの等の薬草)を摘み、粽を食べ、雄黄酒を飲み、雄黄酒を子どもの体に塗り、虫除けや毒よけの香袋をぶら下げるなどの風習が受け継がれてきました。 華人が主体であるシンガポールと華人が比較的多いマレーシア、タイ、ミヤンマー、カンボジアなどの東南アジアの諸国では、端午の節句に粽を食べる習慣があります。現地の華人が竜船競漕を開催しています。 ここ数十年、伝統的な竜船競漕は国際的なスポーツイベントのドラゴンボートレースへと発展しました。 端午の節句は、世界中でますます広がっていて、世界中の人々が屈原文化を受け入れたことを反映しています。それには、人々が強く安定した国、社会の調和と公正、幸福ですばらしい生活、健やかで高潔などの理想を求めることが含まれており、全人類が求める理想と同じなのです。(完)   蔡靖泉氏略歴...