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1971年の決着、中国が国連安保常任理事国になった日(その一)

50年前、中華人民共和国代表団は初めて世界にその姿をあらわした。 当時の先見の明がある人々はイデオロギーの大きな違いを脇に置き、長期的な利益に目を向け、中国の国際社会への復帰を促進し、その後の長きにわたる変化と発展をもたらした。 中国の国際社会の仲間入り、中国に対する国際社会の理解はまだ始まったばかりだった。 中国の国連安保理常任理事国入り イースト川のほとりの序盤戦。 1971年11月15日午前。横に長い国連会議場ビルはニューヨーク〔以下、NY〕のイースト川に面しており、通称「マッチ箱」と呼ばれる薄型で背の高い事務局ビルの隣に鎮座している。 この日は、中華人民共和国代表団が初めてその姿を世界にお披露目する特別な日だった。 これより前、「五大国」という言葉は国連で使われていなかったが、今や四大国は五大国へと回帰した。 インド元国防相メノンの名言「アメリカとソ連の意見が一致するなら、国連は必要ない。しかし一旦意見が割れれば、国連は何もできない」。 そしてこれからは、米・ソ・中の「三極化」の時代だ。 新しい勢力図が、イースト川のほとりで誕生しようとしていた。 『中国新聞週刊』記者/黄衛 鮑安琪 翻訳/江瑞 初お目見え  「早くこうなるべきだった。今日は実に愉快だ」。11月15日午前10時32分、中国代表団団長、副団長、事務局長、代表、、通訳が胸を張って総会議場に入場してきた。揃いの濃色の人民服(海外メディアは「マオカラースーツ」と呼んだ)は、スーツが優勢の国際社会ではすこぶる人目を引いた。記者に「『CHINA』と書かれた座席に座った感想は?」と聞かれた喬冠華は、冒頭の回答を放ち、高笑いをした。  この日は、日程上は国連軍縮会議の通常開催日となっていた。しかし実際には、中国代表団の到着を待つため、軍縮会議は何日も休止になっていた。いまや中国抜きの議論や交渉は意味がないというのが、全会一致の意見だった。  この日再開された軍縮会議では、中国に対する歓迎の意を示すため、まず半日ほどの時間を、各地域グループ(西ヨーロッパグループや東南アジアグループなど)代表あいさつに当てていた。だが、その場で発言を求める代表が相次いだため、予定時間はすぐにオーバーしてしまった。  中国代表団は、時折手にした代表名簿を眺めながら、各国代表の発言をただ静かに聞いていた。ドイツ通信社は「中国人はどこにいても真面目で冷静な姿勢を崩さない。彼らはいま、ゆっくりと慎重に国連で歩むべき道を模索しているのだ」と報じた。  会議は午後まで続き、55カ国の代表が登壇して歓迎の辞を述べた。しかし、あっという間に日没がやってきてしまい、発言の順番が回ってこなかった代表のあいさつは後ほど事務局がプリントして配布するより他はなかった。  午後6時40分、ダークグレーの人民服に身を包み、眼鏡をかけた喬冠華は、嵐のような拍手の中、演壇に向かった。  喬冠華のスピーチは45分にも及んだ。この発言のために毛沢東が定めていた基本路線は次のようなものだった。第一に雪辱を果たす。これほど長期にわたり中国を国連から締め出していたことに対する雪辱を果たすため、アメリカと日本を名指しで批判する。第二に世界情勢を語る。国家は独立し、民族は解放され、人民は革命を起こさなければならないというのは、すでに抗えない時代の流れになっていることを指摘する。第三に国際問題に対する中国の基本姿勢を語る。霸権主義に反対し、平和五原則をアピールする。とにかく、「旗幟を鮮明に、上手をとり、破竹の勢いで」語ることが重要だった。  スピーチ原稿は前日の夜にやっと最終チェックを経て、中国国内で審議の上ゴーサインが出されたものだった。通訳チームは中国語の原文を何度も英語とフランス語に訳す作業に追われた。と夫のは共に通訳チーム所属で、施燕華が英語の通訳、呉建民はフランス語の通訳だった。外交部翻訳室責任者のはかつて「英仏連合軍がNYに侵攻する」と冗談めかして語ったことがある。スピーチ原稿には、途中「アルバニア決議」〔用語解説P62〕を提案した23カ国に感謝を述べるくだりがあり、1つとして落とさないように、また順序(アルファベット順)も間違えないように、念入りに校正が重ねられた。深夜を回り、英語原稿300部とフランス語原稿100部をダンボールに詰め終え、皆やっと安心して部屋に戻って寝ることができた。  131の加盟国に記者の分を加えても、本来なら300部あれば十分余裕があるはずだった。しかし、喬冠華が登壇して数分も経たないうちに原稿はきれいになくなってしまった。事務員は慌ててホテルに電話をし、大至急追加で100部を持ってこさせた。  総会議場の中は終始静まり返っていた。両側の通路に立っている人は同時通訳のイヤホンがないため、手元の翻訳原稿を見ながらスピーチに耳を傾けていた。  喬冠華のスピーチは、インドシナ3国の対米戦争、朝鮮半島の平和的統一、アラブ諸国の反シオニズム、アフリカ諸国の反植民地主義、南米諸国の200海里制の主張〔用語解説P62、後に「200海里経済水域」と呼ばれる〕、搾取に対するOPECの戦いのいずれにも明確な声援を送るものだった。「他人より上だと思い上がり、他人の頭上で霸を唱える」超大国を痛烈に批判した。最後は高ぶりを抑えきれないように「いかなる国も、自国のことはその国の国民が決定すべし。世界のことは世界各国で決定すべし。国連のことは、国連に加盟するすべての国が共同で決定し、超大国によるコントロールと独占を許してはならない」と断じた。  喬冠華がスピーチを終えると、数十の友好国家の代表は祝福の言葉をかけ握手を求めるために押し寄せ、通路には長い行列ができた。通訳チームのリーダー・は祝賀にやってきた国の名前を記録しておくよう命じられ、群衆にもみくちゃにされながら、なんとか踏ん張っていた。施燕華はこの任務を命じられたのが自分でなくてほっとしていた。さもなくば、きっと「歴史の舞台」からはじき出されていたことだろう。  ロイター通信社やUPI通信社などのメディアは、「中国がこの夜、国連の舞台に初登場し、激しい言葉で語った政策演説は、国連総会に衝撃を与え、多くの外交評論家の予想を裏切った。なぜなら評論家らは、中国代表団が最初に発する言葉は、国連で彼らを迎えてくれた各国に対する謝意を手短にまとめたものだろうと予測していたからだ」と述べた。ドイツ通信社は、喬冠華のスピーチについて、中国が自らを「中小国家の代弁者にして支持者」となっていくことを表明したものだと指摘した。  喬冠華のスピーチが終わった後、米国連大使ジョージ・〔H・W・〕ブッシュ、ソ連国連大使ヤコフ・マリク、イスラエル国連大使ヨセフ・テコアは拍手をしていなかったことに触れた記事もあった。